こんにちは、山野麻沙子です。
今回はひまわりさんから学ぶ「先に与える」というお話から私が思ったことを書いてみたいと思います。
あなたは人に与えられる人ですか?それとも人に与えてもらう側の人ですか?
実は豊かな人と豊かでない人の違いはこの「先に与える」という行為ができるか?できないか?に関係しています。
先に与える人が幸せになれるという真理
聖書にこんな言葉があります。
与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押し付け、揺すり入れ、あふれるまでして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。
あなたがもし今の状況にあまり満足していないとして、周りの人がとても幸せそうに見えたとします。
よく、「隣の芝生は青い」とか言いますが、周りと自分をいつも比べて
「あの人よりもっと良いものが欲しい!」とか
「あの人があれを買ったから私もこれを買わなきゃ!」とか
「高級マンションに住みたい!」とか
「高級な外車を買おう!」と常に何か外側に幸せを求める人がいます。
こういうことも確かに生きる上で魅力がありますし、そういうことがあるから仕事も頑張れると思うので否定はしません。それもいいと思います。
でも人間の物質的な欲はキリがありません。何を買ってもすぐ飽きてまた他の物欲がどんどん出てくる。底なしの物欲・・・・これを延々とやって心は満たされるのでしょうか?
まあその欲しいものを買った瞬間は自分の欲を満たした喜びでとても嬉しいと思います。
でもこれは自分だけ善かれの精神なのでいつかお金も尽きて破綻します。
これは親と子供のはなしでも言えることですが、親は子供を育てるために先に愛情を与えますよね?
それも何も見返りもなく・・・
その愛情を与えられて育った子供は大きくなった時に親に感謝し親孝行でお返ししようと思う。
逆に親が自分のことだけしか考えない人で子供に食べ物や衣服も与えない人だったらどうでしょうか?
子供はその親には感謝もなく何かしてあげたいとは思わないんではないでしょうか?
与えれば与えられる・・・こういうことにも言えますよね。
貧しい人は与えられることばかり考える
人に与えて喜ばれた時に自分もまた幸せになれるのですが、心が貧しい人というのは人に与えられることばかり考えています。でもそれではいつまでたっても貧しいままです。
それよりもたとえスプーン一杯のお粥でも自分に与えることができると知った時その人は豊かになるのだと、お釈迦さまは説明したそうなんです。
真理は人は与える喜びを知った時にその人の生活が充実するということです。
煩悩に取り付かれた人間、自分のことだけ、自分だけが天国に行こうと願う人はかえって天国の道は閉ざされ、地獄へ堕ちる・・・ともいいますね。
そして大物になる人は皆、ギバー(与える人)の精神を持っているとも言われています。
逆にテイカーとは(受け取る人)です。
豊かに幸せになりたいならば、先ずはギバーの「先に与える」という精神でいきたいものですね。
では、どうもありがとうございました。