最近、朝から10分瞑想をしています。
目を閉じて鼻から息を吸って口から吐き出す。
その呼吸に意識に向ける。
この時、「意識して生きている」といえます。
今この瞬間に生きているという事です。
それとは逆に、学校や、会社に行くとき
毎朝6時に起きて、8時までに会社に行き、10時にちょっと休憩して仕事して昼休憩して、また仕事して、5時に終わる・・という風に時間に生きている状態。
これは「無意識で生きている」ということです。
この無意識で生きるという事は、学校の脳みその時間割教育で生きているという事です。
幼いころから植え付けられてきた学校教育の時間割の影響がその無意識で生きるあなたを作り出しているという事です。
無意識生きている時は
その学校と会社の中で周りの人に作られたあなたというアイデンティティの中で生きているといえるのです。
「無意識で生きている」これを思考で生きている状態といいます。
よく多くの人が勘違いしていることは、無意識というと、なにかぽわ~んとしてボケ~っと何かしてる状態だと思っている人がいますがそうではないのです。
ただただ、何も考えずに時間に流されてしまっている状態のことを無意識であり
これを思考して生きているというのです。
先に、瞑想状態が意識して生きている今この瞬間を生きている状態といいましたが、
この瞑想がなかなかできない時にお寺にある戒壇巡りをしたことがあります。
この戒壇巡りとは、地下にある暗闇の中を歩くことによって穢れが払われて生まれ変われるという修行のような体験がができるものなんですけど、
この戒壇巡りは「私は意識である」という事をとても体感できるものです。
階段を降り、洞窟のようなところに入っていきます。
目を閉じなくても周りが真っ暗なので目を閉じてるのか閉じてないのかも分からくなり、目から入ってくる情報が一切なくなるので、
いつもより聴覚、嗅覚、触覚を最大限に使って動いているのがわかるのです。
壁に触れながら歩くのですがこの壁がなかったら闇で方向もわからないと思います。
この闇を歩いていると「私ってただの意識なんだな」と思えるのです。
自分の体も見えないし、周りの気配もただのそこにある意識があるだけなんです。
しばらくの間、暗闇の中を歩いていると不思議な感覚になっていきます。
意識がここにあるっていう感覚しかないので目の見えない赤ん坊になった感覚っていうんでしょうか。
普段いかに目に見えるものからの情報で生きているのかを知らされた瞬間でした。
その後にぼんやりとした光が優しく目に入ってきたときはやっと産まれた~と思えるのです。
そして奥にある御本尊と繋がる鍵前に触れてきました。
闇を知ると光のありがたさがわかる。
意識だけで生きると、エゴがなくなっていきます。
自分の名前とか、仕事とか、地位と名誉とか、着ている服とか、履いてる靴とか、つけてる腕時計とかどうでもいいんです。
目に見えるものはどうでもいいし、みんなただの意識なんだ、みんなただの同じ意識でなんだって思えるのです。
この戒壇巡りは、自分とは何か?を気づかせてくれるいい修行でした。
しかしこの闇を抜けて階段を上がるとまた思考で生きる世界に戻ってしまうのですが・・・
エゴ(思考)に取り囲まれて生きると周りに流されてしまい疲れるけど、意識で生きると周りの言葉に左右されないので自分軸で生きれるのです。
この意識で生きることと思考で生きることを両方バランスよく取り入れた方が人はもっと楽に生きれる気がします。
ではどうもありがとうございました。